こんにちは!¥満ママ普及プロジェクト代表の福田美香です。
今日は、私がなぜ、介護福祉士から畑違いの起業という道を選んだかをお話したいと思います!!
なぜ、介護福祉士になったのか?

私は21才〜26才までの6年間、介護福祉士として特養に勤めていました。
介護の道に進んだキッカケは、中学3年生の時、末期がんでお母さんが亡くなったことがキッカケでした。当時は姉妹全員学生だったので、お母さんに成す術がなかった。お金はもちろん無かった。ただただ亡くなっていくの姿を見届ける事しかできなかったのです。
お母さんが亡くなったあとに振り込まれた遺族年金。私は約200万円国から振り込まれました。当時はかなりの大金でこのお金を・・・お母さんの命と引き換えにいただいたお金を何に使おうか考えました。
考え抜いた結果「お母さんにやってあげた事をしたい!」「お母さんにできなかった後悔を拭いたい」「親孝行できなかったから、代わりにこの日本を創り上げてくれたご年配の方々の為に働こう!」そんな想いで介護福祉士が取得できる専門学校に通い、晴れて介護福祉士となりました。
介護の仕事は天職だっった

介護の仕事は体力的にとてもしんどかったけど、私にとって天職と思える仕事でした。
ある人は寂しさを埋めるために孫のように接してくれ
ある人は昔の戦争の話をしてくれ
ある人はお姑さんのように時に厳しく時に優しく接してくれ
ご年配の方々との日々は、生きる学び、生きる財産となり、本当に充実した日々を過ごしていました。
けれど現実は甘くなかった

ただ、許せないことがありました。
介護の現場は人手不足の為、ただただ「就職率が良いから介護の仕事を選んだ」「定年間近で天職が厳しいからヘルパーになった」という人がわんさかいたのです。
介護の仕事に就く理由はどうだっていい。ただ、仕事のやり方がどうしても許せなかったのです。
嚥下障害があり刻みやミキサー食しか食べれない人のご飯を、グチャグチャに混ぜ食べさせる。
時間が無いからと言って、口から溢れ出ているのに無理やり詰め込んで食事介助を終わらせる。
お風呂やオムツも大人数行わなきゃいけないので、機械的に介護をする。
そんな介護をされたご年配の方々はどうなるか??
食べる楽しみや生きる気力なんて失いますよね。
自分の親がそんな介護されていたらどうですか??自分が年を取って同じようにされたらどんな気持ちですか?

けれど、施設の方針は絶対。マニュアルどおり。ひとりの介護職員の力ではどうすることもできない現実を目の当たりにしました。
成し遂げたい夢があった。

また、私には成し遂げたい夢が2つありました。
1つ目は、苦労して亡くなってしまったお母さん・・・。お母さんのような人を一人でも減らす!幸せいっぱい笑顔いっぱいのお母さんを増やしていく!!!!!
2つ目は、私は児童養護施設で育った人間です。施設の子どもたちは孤独です。生きることに精一杯で夢なんて持つことができません。
施設を卒業したら未知の社会に放り出されます。大半の子が不良になったり、早く結婚して(依存して)子どもを産んで育てられなくなり施設に入れる人もいます。
その原因はただ一つ。
愛を知らないから。愛に飢えているから。愛された経験や記憶がないから「愛される愛す」がわからないんです。不器用なんです。
私の夢は、児童養護施設の子どもたちに夢を与えること。希望の星になること。
どんな親でも、どんな環境でも、どんなにお金がなくても、人は「変わる」と決断さえすれば必ず「変われる」ということを。夢はいつからだって何歳になっても叶えることができるんだということを、この福田美香の命を通して伝えるんだ。背中で魅せていくんだ。
この2つが10年以上想い続けてきた夢になります。
介護福祉士をやめる決断
天職だった介護の仕事がどんどん苦しくなっていく。それと同時に夢がどんどん膨らむ。
そして、決断しました。介護の仕事を辞めることを。今後は未来の旦那様の親が介護を必要になった時に、その時にまた介護福祉士をしようと思えるうようになったのです。
とはいえ、介護の仕事を辞めたもののすぐには起業の道には進みませんでした。いや、起業なんて頭の中に一文字も無かった。その当時「起業=ホリエモン」だったので、私とは別世界の話だと思って興味さえ持たなかったのです。
後編はこちら↓↓
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